たーまやー

昨日、調布の花火大会に行った。
花火大会は、去年は行かなかったけど、おととしは行った。
おととしは、高崎の烏川だった。
その前の年だったか、もう少し前だったかには、隅田川の花火大会にも行った。
なんだかんだで、花火大会にはそれなりに行ってる。
一般人の平均くらいは行ってる。
もっとさかのぼれば、小学生の時は、間違いなく毎年行ってた。
前橋市民にとって、お盆の利根川花火大会は、大きすぎる存在感のイベントだった。
利根川花火大会は、見やすいし、時間も長い。
わしは、小さいころは、花火大会が大好きだった。
なんであんなに、大好きだったのだろう?
小さい頃から、大人になるまで、断続的に体験している出来事は、
どう感じたかを思い返すことで、感受性の変遷を辿るバロメーターになる。
とにかく、小さい頃は、無条件に好きだった。花火大会。
大きさ、数、爆音は、どれも観客を無条件に圧倒しうる要素だ。
とくに、小さな男の子が大好きな要素でもある。
花火大会のディティールだけを追って、原稿用紙5枚の日記が書けた。ほんとに。
いつしか、それほど魅力を感じなくなったのは、あれは高校生、大学生くらいのときか。
ああいう年頃は、もっとこう、自分に興味があったのだろう。
花火は、風景の一部分、ストーリーの背景描写に過ぎなくなった。というような覚えがある。
あすなろ白書的な。アイズ的な。
実家の子機で電話をしながら横目で見ていた記憶がある。
大学の彫刻科を卒業する時、同級生の女の子が一人、花火師になった。
あの人はなぜ、花火師になったのだろう?
とにかく、花火大会には、ただ行けばいい。
予約もチケットも要らない。そこがいい。
手続きは、わしが人生でもっとも苦手とする物事の一つだ。
そういう面で、花火大会はけっこう特殊な種類の大会だとも言える。
自然現象に近い。
わしはただ、混んでいる京王線に乗ればよかった。
花火は、上がっていた。たくさんの人が、それを観るために、ああだこうだもめながら斜め上を見上げていた。
(そう、人々は一様にもめていた)
空に上がった火の玉は、何百メートルの高さで、爆発して、
何万人の人が目撃する。
音は、もっとたくさんの人が聞く。
やっぱり、自然現象を連想した。雷とか、オーロラとか、流星群とか。
でも、あれは自然現象じゃない。あれは確かに、人が上げている。花火の一玉には、持ち主がいる。上げ主がいる
あの、火の玉が上がる、根元には、花火師がいる。
暗闇で、花火師が、大砲に火を付けている。

花火師は、どんな気持ちで花火をあげるのだろう?

壮大ないたずら小僧の気持ちか、自然を操る神様の気持ち?
わしの脳内は、大砲が設置された多摩川の中州で、
暗闇の中にシルエットでうごめく花火師のイメージでいっぱいになった。
でももちろん、わしが見ているところからは、火の玉の根元は見えない。
わしは、すごく遠くの客席から見ていたんだ。
でも、花火大会が終わる頃に、はっと気づいた。
花火って、今の時代、コンピュータ制御で上げるんだっけ?
大砲の根元には、花火師はいないのか?
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by syun__kan | 2009-07-19 22:56 | 日記 | Comments(0)
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