デザインについて思考のぐるぐる
明日は、六本木において、「国立デザイン美術館をつくろう」のシンポジウムに参加する。

ポイントは、わしが教員であり、立体作品の造形作家であったとしても、
デザインに関して全くの素人であるということは、こないだの日記で述べた。

ちょっとは予習するべきである、とは思いつつも、
一夜漬けの知識を述べてもそんなことは誰でもできるので、
わしの今までの経験だけに基づいたことを話せばよいのかな、とも思う、
なので知識を新たに仕入れようとはせず、ここはひとつ前日である今日に、
自分のデザインについての考えをまとめておこう、
いや、まとまらないかもしれないけど、デザインについて考えてみようと思う。

関口が「国立デザイン美術館」の構想を初めて聞いたとき、すぐに浮かんだ光景は、
グラフィックデザインや、携帯電話などの産業デザインだった。
深澤さんのデザインした赤くて角のとれた携帯とか、
最新型の椅子が展示されたりする光景。

そして、それにつながるような日本の昔のデザイン、
浮世絵とか、寺社とか、縄文土器とか、
よくてそこまでが、わしが10秒でイメージできた範囲だった。

しかしよく考えると、デザインはそれだけじゃない。
たとえば、自分の「人生をデザインする」、というような使い方もする、デザインという言葉は。
ウィキペディアを見れば、

デザインは日本語では「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」と訳されてきたが、それだけに限らず、
人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味する。
人間が作り出すものは特定の目的を持ち、それに適うようデザイナー(設計者)の手によって計画されるのである。

とある。
環境デザイン、政策デザイン、教育デザインなど、たくさんの「デザインのつく言葉」も見つかる。

「彫刻」という言葉も誤解されがちだ。
わしが、「大学の彫刻科を出ました」なんて言うと、
「粘土とか?いや、それは彫ってないから違うか。木とかを彫るんだよね?」
というような反応をされることが非常に多い。
「彫り刻む」なんて言う名前つけているから誤解されるのは自業自得ではあるが…

もちろん木彫も彫刻だが、粘土だって彫刻だし、鉄も石も、新聞紙だって彫刻である。
写真だって平面作品だって、作家が「これは彫刻」と言ってしまえば彫刻だし、
鑑賞した人が「これは彫刻ぢゃない」と言えば、なんだって彫刻じゃないのかもしれない。
ともえまみさんがフィロ・フィナーレしているフィギアだって、当然、見る人によっては彫刻になりうる。
そういう意味では、彫刻という言葉は人それぞれの頭の中にあるのかもしれない。

話がそれたけども、「彫刻」という言葉以上に、「デザイン」という言葉も、誤解されやすい概念なのかもしれない。
「誤解」というよりは、すごく狭い意味で捉えられやすいというか。

そういえば、わしは2008年に、21_21デザインサイトにおいて、
三宅一生さんディレクションによる「XXIc.- 21世紀人」という企画展に、作品を展示させてもらったことがある。
21_21デザインサイトは、生粋の美術館ではなく、デザインを展示する場である、がしかし、
わしが展示したのは、例によって、新聞紙とガムテープを使った見上げる大きさの彫刻だった。
全然デザインじゃない。

でも今思うと、その作品は、あるいはその企画展は、21世紀の人間の生き方を示唆する意味があったんじゃないかなと思う。
いうなれば、今の、そしてこれからの人間の生き方をデザインするという、
とても広い意味の「デザイン展示」だったのだろう。

わしの作品がそういう意味を持つことができたのは、ひとえに、「デザインサイト」という、
デザインを展示すべき場所に、図工かよ!っていうくらいのコテコテのファインアートをおくという、
禅問答があったからだ。
「デザインサイト」におかれれば、鑑賞者は、「どうしてこれがデザインなのか?」という視点で作品を見ることになる。

これが一つの、デザインミュージアムのマジックであるといえる。
「彫刻」も「絵画」も、未来の作品は展示できない。
しかし「デザイン」の展示なら、「デザイン」という言葉の広さを持ってすれば、未来を展示することができる。
こんな言い方、かっこいいんじゃない?!

でも、かっこいい言葉に、内実を伴わせるのは大変である。
どんな方向に未来を見せて、人々をそっちへ向かわせるのか?
まあ、それはキュレーターになる人に任せればよい。
あとで鋏の話もする。

話を一つ戻す形になるが、「デザイン」ということばの意味を、誤解させず、狭くならずに人々に伝えるという意義も、デザインミュージアムにはあるだろう。
しかしまあ、デザインという言葉の、主に「広さ」を正しく理解したところで、人々にはどんな良いことがあるのだろう。

「知らなくても生きて行けるじゃん」

これは美術ピープルが一度は対面しなければならない、外部からの正当な疑問の一つである。
ここで怒らないで謙虚にけなげにちゃんと考えることが大切。

自然物は神のデザインであるが、それ以外の人工物は、すべて人のデザインによるサムシングである。
今わしの目の前にある、パソコンもヘッドフォンも紙コップも椅子も、天井に張ってあるシートの模様も、
何から何まで、デザインされたものである。
作者がいる。
わしがこの間作った「王様」という作品には、下のほうに「Loft」のロゴマークが立体化され、くっついている。
制作中に、身の回りに「Loft」の紙袋があり、
そのロゴマークが、わしの表現したかった日常感を出してくれそうだったから、そして可愛かったから、オシャレ感もあるし、だから作ったに他ならない。

今日、実は21_21デザインサイトに行って、2002年に亡くなった、田中一光というデザインの日本代表選手のような方の展示を見てきた。
そしたら、Loftのロゴは、この田中さんのデザインだったことが判明した。
まさか、Loftのロゴに作者がいたとはな。
しかしこんな当たり前のこともない。

デザインは黒子であり、日常生活に空気のように、冬場のインフルエンザウィルスのように、蔓延しているにも関わらず、みんな意外とそれに気づかない。
繰り返しになるけど、わしはデザインのことは全然わからない、
しかしデザインには、強烈な魔力がある、それについては時々感じる。
たとえば、西友の牛乳売場に並んだ牛乳たち、
オレンジのパックの農協牛乳や青いパックのおいしい牛乳、赤いメグミルク、
それらの中身が全部同じだったらどうなるだろう?

「モー」

と鳴いている、ハナという名の一頭の牛から採れたものだとしたら。
意外とみんな気が付かないのでは?

「シルキーブラックは、シルキーな気がするけど、缶がつや消しっぽいデザインだからそう感じるだけだよ。
となりのドトールの缶と、中身は一緒。
今更気づいたの?君」
なんて言われたとしたら(ほんとはそんなことないけどね)、なんとなくそういう気もしてくる気がしませんかという気がする。

デザインは、物の価値や、人の感覚という大事なものを、ぐらぐらと、かなりの揺れ幅で揺さぶってしまう。
しかも一般的に人は、デザインされたものが身近すぎて、「デザイン」という切り口で周囲を見ていないから、
余計に無防備であるといえる。

なんつって。
こういう言い方だとちょっと怖い感じだ。
白い襟のワイシャツの上にペールカラーの薄いセーターを着て茶色い革靴を履いてちょっと脱色してサイドを刈り上げた髪の毛をなでつけてレンズの小さい眼鏡をして、コンパスをくるくるさせていた理知的で飄々とした「デザインさん」が、
急に怖くて、後ろ暗い人に思えてくる。

でも、言い方を変えれば、シルキーブラックの缶がつや消しなデザインだからこそ、
わしは「シルキーだ!おいしい!」と感じることができるのかもしれない。
気温とは別の、体感温度というやつ。
コーヒーの味を各社ごとに機械で測定したデータが気温だとしたら、
「このコーヒーの缶、スタバの(緑の美人二股エビフライみたいな)マーク付いてる!おいしい!」
と感じるような、デザインに誘発された味が体感気温である。
本質である液体の価値をグンと上昇させるのだとしたら、デザインとは何と素晴らしいことか。

飲み物は液体が本質で、デザインは付加価値だけど、
デザインがもっと本質に近いサムシングの場合、デザインが良くなればそのサムシングも、もっと良くなる。

その具体例が、教育テレビの子供向け番組であろう!!
二十歳過ぎてから、何かの拍子に、「ピタゴラスイッチ」や「にほんごであそぼ」を見て、衝撃を受けた。
わしだけでなく、そんな感想を、大学時代にいろんな友達から聞いたものだ。

わしらが幼児期に見た教育テレビの番組って、もっと野暮ったかったじゃないか!!
今の幼児はずるい!!

こういう、グッドデザインに囲まれて育った子は、絶対センス良くなる。
YMOを聞いて育った世代のミュージシャンは、いい音楽作るよな、なんて音楽が好きな人がカラフルなニット帽をかぶりながら言ったりするけど、それと同じだ。

でも幼稚園児が、「デザイン」という切り口で「にほんごであそぼ」を鑑賞し、評価しているとは思えない。
なんとなく見ている。

ではその子が、もう少し大きくなったとき、国立デザイン美術館に行って、
「にほんごであそぼ」にはデザイナーがいることを知り、
「デザイン」という切り口で身の回りにあるものを眺めることができるようになった場合。
「デザイナー」という職業というか存在に気づいたとして。

結論は簡単だ。
良いデザイナーが育つ。
シルキーブラックよりおいしく感じる飲み物や、「にほんごであそぼ」より面白い番組が生まれるかもしれない。
100人中1人しかデザイナーにならなかったとしても、
残りの99人は、そのデザインの価値を認め、育てる働きをしてくれるかもしれない。
YMOチルドレンの音楽活動も、聴いてくれる人がいるから成り立つ。

そのためには、デザインピープルだけに向けた難しい展示を行ってはだめだと思う。
デザインなんて概念のない、例えば子どもでも楽しめる展示。
色々なデザインのペットボトルを並べ、どのペットボトルを飲んでみたいか。
店のエントランスのデザインを並べ、どの店に入ってみたいか。
あるいは自分でデザインしたりね。
そういった、日常にあるデザインに気づき、また人をデザインすることに向かわせるような展示なりワークショップなりがあるといいな。
デザイナーが、自分の仕事が紹介され、
「今までみんな、僕のこと知らなかったでしょ。僕がデザインしたんだよ。えへん」
となるだけの展示では、もちろんいけない。
デザイナー以外の人に良い影響がフィードバックされないといけない。
じゃあ何ができるのか、それを具体的に打ち出す必要があると思う。

話はちょっと変わって、
都会の最新のものがデザインである、というのも誤ったイメージの一つであり、地方の伝統的なものにも素晴らしいデザインがある、
むしろそっちに目を向けさせたい。
そういう思いも、国立デザイン美術館のプロジェクトから感じる。
この間のミーティングでも、そういう話が出た。
あすのシンポジウムでも出るだろう。
東北のリンゴを採る鋏など…。
そういうものが、どんどん失われつつある。
残していかなければいけない。
そういう、「残す」という意味が、この美術館にはあるのだ。
将来的には、その技術を応用して、何か新しい開発を行えるかもしれない。
新しい衣食住の文化を生み出せるかもしれない。
日本のネタ帳というか、引き出しというやつだ。

本当に、それには大賛成だ。

ここでのポイントは、その伝統的な技術の所有者が、そんなにそれを「残したい」と思っておらず、もっと刹那的に生きていること。
そして、その人の職業はデザイナーでないこと。
でもその鋏はデザインなのである。デザインには設計という意味もある。
わしの新聞紙とガムテープの作品が、デザインサイトに置かれたことで、デザインとして見られた、
それと似たようなことが起こる。

デザインとしての価値に、リンゴ鋏の作者及び鑑賞者が気づくことになるし、
改めてわざわざ鋏がデザインミュージアムに展示されることで、これからみんなが生きていく方向性のヒントになる。
謎かけが未来をデザインする。
デザイン×エックス=未来の法則。

技術者が自分の技術を大切にしようと思うこと以上に、
周りの人たちがその価値を認め、サポートすることが大切なのだろうと思う。

わしは自分の作品を、展示が終わるとよく捨ててしまう。
単に保管場所に困っていることが主な理由だが、
「人目に触れないものはないものと同じ」といつも感じていることも理由である。

でも、残しておけば、また誰かの目に触れるかもしれない。
でも、残さないということのインパクトが、人により強い印象を与える場合もある。

花火はその場限りだからこそ趣があるのであって、
たとえば空中でさく裂した光を、ほむほむみたいに魔法で時間を止めて、ずっと光のまま展示したら、インパクトが薄れるかもしれない。
そんなことしたら、花火師は、どう思うだろうか?嬉しいかな?居心地悪いかな?
ただ、花火師の技術が失われてしまっては、二度ときれいな花火を見れなくなる。
花火という美しいデザインを残すには、イルミネーションのように光を固定する余計なお世話ではなく、
技術の方を保管することが必要だ。
残す目的と、その目的のためにどの部分をどういう形で残すか。
それも大切な気がする。

ああ、きりがなくなってきたので終ろう。
明日のシンポジウムは、(よくわからないけど)ユーストリームという何かをするらしいよ!
最新型のパソコンに紛れて泥付き人参が並んでいるのを見たい、いじわるな人はどうぞ!
http://www.designmuseum.jp/symposium/

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by syun__kan | 2012-11-26 18:26 | 日記 | Comments(0)
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現代芸術家、関口光太郎の日記。
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