最近ワークショップを二本行った。
一つは11月10日、東京ミッドタウンにおけるエドヴァルド・ムンク生誕150周年のイベント。
わしがあらかじめ作っておいた2メートル20センチのムンクの叫びの周りに、
「一緒に叫んでくれるもの」を通りすがりの人に作ってもらって、
設置していった。
自宅での2メートル20センチムンクの制作、及び作品と材料の郵送の手配はけっこうしんどかったけど、
ワークショップ自体は滞りなく進み、
なかなか楽しかった。
オシャレで構造的なミッドタウンにおいて突如泥臭い図工ができるとあって、
参加した子どもたちのテンションもほどよく高く、
面白い創作活動が続いた。
もう一つは、その地区の中学校美術教員を対象とした、実技研修との名もついたワークショップ。
こちらはイマイチだった。
前に立って会場を見渡したときの先生方の疲れた顔、
大量に集まりすぎた新聞紙の後片付けの徒労感、
ゲーム的な制作中も表情一つ変えず途中で帰られた方。
何が原因か?
研修日ということで自由意志とは別に参加された方がいたのか、
中学生を相手にしている先生方に対して関口の提示した図工的な内容がフィットしなかったのか。
いや、もっとも主要な原因は自分である。
この研修に対してのシミュレーションが足りなかった。
できたものを持ち帰る袋を手配していなかったり、大量のゴミが出ることをあらかじめ伝えられていなかったり。
それなりの準備はした。パワーポイントを作り直したり、参作を持って行ったり。
しかし、まだ必要量に達していなかったのだ。
忙しさにかまけて、自分はやっつけ仕事をやらかしてしまったのではないかという思いが去来し、
悔しい、悔しいと何度もつぶやく。
限界に挑戦しようとする意思のあるところにしか、感動や美しさは生まれない。
「こんなもんでいいや」という仕事は、必ず見抜かれる。
参加してくださった先生方、呼んでくださった先生方には、不本意な仕事をしてしまい本当に申し訳ありませんでした、と伝えたい。
自分勝手な解釈が許されるなら、30歳そこらのハナタレ小僧にとっては、
「いつもうまくいく」という経験は、むしろ毒だ。
失敗は失敗ではなく、このやり方がだめであるとわかった意味で成功だとトーマス・エジソンが言っていた。
途中で帰られた先生の存在を、わしは決して忘れない。
必ずリベンジする。
ということで、実はこの2本のワークショップは、2013年の怒涛のアート活動ラッシュの締めだった。
来月ボリジロウが産まれるので、しばらくアート活動は産休育休に入る。
今年初めのアート活動であった、エルトブ・テップでの展示でも、
期間中に作品の破損があった。
そのときもわしは、詰めの甘さを露呈したのである。
学習がないと言えばそれまでだが、
戒めで始まり、戒めで終われたのはとても良いことだと思う。
いい気になるには100年早い。
鼻っ柱なんぞ折られればよい。
作り直してマイケルみたいになればよい。