ボート池のある公園のベンチに座ってカモを見ている。
頭痛はする。
教育関係の年度末の仕事は忙しい。
加えて最近の土日はアート関係の所業もしていた。
慢性的な疲労が溜まっている。
隣には奥さん、そしてベビーカーに乗ったボリさん。
ボリさんは生後3ヶ月を過ぎ、そろそろ外に連れ出している。
初めて電車に乗せたときは、そりゃ少し緊張したさ。
この訳の分からない世の中(わしもその一部だけど)にさらさなきゃならないなんて。
しかしいつまでも家の中で飼っているわけには行かない。
人間は社会的な存在なのだから、
外界にも少しずつ関わらせていかねば。
そのうち野放しにしなきゃならないのだから(恐ろしや)。
家の中だけで通用する存在ではだめだ。
その地域で通用し、学校で通用し、ひいては日本で通用し、世界で通用する存在に、
いや、自分のできないことを望むのは反則か。
スプリング・ハズ・カムといった趣の日光に照らされて、
子連れで公園のベンチに座って、弁当を食べているのは、
ものすごくベタだった。
何だかものすごくありがちな。
しかしこのありがちさがいかにありがたいことかは、何となくは知っている。
奥さんは今朝も、ちょっとここには書けない、ホラーな夢を見ている。
奥さんは安定しない家庭環境で過ごし、いじめにもあってきた。
だから30歳にもなっていまだにトラウマめいた夢を見る。
欝でコタツの住人になっていた2年間くらいも、ついこの間のことだ。
子どものときに、充分に子どもらしく生きることができず、理不尽な経験を重ねると、大人になって何か歪みが出る。
だから、ボリさんを、歪み無くまっとうに育てることは、ある意味でリベンジなのだと思う。
まあ、君には全く関係ないけどな、とベビーカー上で寝ているボリさんを見る。
そう、親の抱えるごにょごにょなど、全く関係ないのだ。ボリさんは101日間の経験しかない。
それ以前は真っ白だ。