日記を書いた

小学校2年生のときの、夏休みの絵日記を実家で見つけたら、

「○月○日 きょうはにっきをかいた」

という記事があった。
たぶん、その日一番のトピックスが、日記を書いたことだったのだろう。
というか、そうだったのである。
わしには、この日記を書いた記憶がある。
書きながら、「なんかおかしいな」と思った記憶がある。

日記も、物語も、原則として、出来事はもう済んでいる。
済んだ物事を、後から記すのである。
「日記を書いた」という日記が、「なんかおかしい」のはそのためである。
今やっていることだからである。

さらに言うと、日記に「日記を書いた」と書くことは、内容的に、ある意味で非常に当たり前なので、そこもつっこみどころではある。
日記に「今日は日記を書かなかった」と書いたら嘘だが、書いてあるのだから、言うまでもなく、書いたのである。

しかしまあ、その記事を、不自然とまでは言いたくない。
こういう表現があってもいいではないかと思う。

その日一番のトピックスが、日記を書いたことであった。
それはそれで、象徴的だと思う。
他になんにもなかったんだ。きっと。
思えば、小さいころは、「暇つぶし」という概念があった。

「暇」

なんと貴重な、魅惑の概念。
なにもしなくて良い時間。
それを、「つぶす」だなんて。
「つぶす」…

大学3年生になって芸術についての自我が芽生えて以来、10年以上、基本的に暇になったことなんてない。
文庫本を忘れて電車に乗っちゃったときとかは別だけど…。

大学生のころは、夜寝るときに日記を書く余力なんてなかった。
瞬間、瞬間を切り抜けるので精一杯。

社会に出て、アーティスト活動をするようになり、このブログを始めて、
小学校以来に日記を書いた。
週一回程度だが、それはわしにとって娯楽であり、文を書く練習であった。

そして自分の調子を図るバロメーターともなった。
時間的、体力的、精神的な余裕の有無が、
「週一回、日記を書く」という、勝手に自分に課した義務を経ていくことによってわかる。

時間的な余裕について言えば、一回の記事は20分くらいあれば書けるのだか、しかしそれがなかなか捻出できない。
子ともが生まれてからは特にそう。
最近も、「書きたいな」とは思っていたが、貧乏暇無しはなかなかにリアル。

だから「日記を書けた」という事実は、それだけである程度の意味を持つ。

今日は日記を書いた。
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by syun__kan | 2015-09-10 23:14 | 日記 | Comments(0)
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