忙しさ

忙しかった。

と、言っても何も伝わらないだろう。
忙しい人なんて、たくさんいる。
というか、世の中の人の半分くらいは「忙しいか忙しくないか」で言ったら、
「忙しい」のではないか。
そんな普通のことを書いても、しょうがないのである。

日記を書くのが2週間ぶりとなった。
これは、30分かそこらの時間、ゆっくりパソコンに向かうのが2週間ぶりであることを意味する。

と、少し具体的に書いても、この忙しさは表現できないであろう。

結局のところ、何がどう忙しかったか、
何を何時間で何回こなしたとか、
順序立ててつぶさに書いていくことが、
この忙しさを表現するに最も確実な方法なのではないか。

しかしだ、前にも思ったが、本当に忙しかった場合、
そんなまどろっこしいことを書く気力体力は残らないのである。

そうこうしているうちに、次の忙しさは始まり、
前回の忙しさは、形を残さずに風化していく。

考えてみれば当たり前のことだ。
「忙しさ」というのは、形に残すような価値のあるものではないのだ。
価値もないのに表出したくなってしまう…それはつまり愚痴とか不平のたぐいということだ。

でもちょっと違うんだ…
それだけではないんだ。
忙しさとは、わしにとって充実感なのだ。
生きている実感なのだ。
忙しくないと、生きていることを実感できないのだ。
この忙しさは、わしが2016年の最初の方で、精一杯関口光太郎として生きた証であり、
だからちょっと、書いて残そうとしているのかもしれない。

でもまあ、前述のとおり、記述方式では表現できない。
文というより、音の方が向いているかもしれない、この忙しさを表すには。

ゴゴゴオオ―――・・・
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by syun__kan | 2016-03-01 23:26 | 日記 | Comments(0)
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