次の表現

もうすぐ21世紀人展が終わってしまう。
いろんな人と新たに会えたし、この機会に懐かしい人に会ったりもした。
アエラに出させてもらった。新日曜美術館のアートシーンには作品を5秒間くらい映してもらった。いい夢を見させてもらった。
でも、終わってしまう。

わしは生まれついての、「常に表現してなきゃいられない人」だった。
実家の、わしが子どものころ使っていた机の引き出しに、幼稚園のときの連絡帳みたいなやつが入ってたのだけど、

「光太郎君は、わざと転んで、友達を笑わせようとしていたりするところがちょっと気になりますが、いい子です」

みたいなことが書いてあった。困った子だ。

わしの一番最初の記憶は、赤ちゃんのわしが実家の居間に寝ていて、
父と母がわしを覗き込んでいて、
わしが上に向けておしっこを吹き上げたときのことだ。
その時の、両親の「笑い」と「困惑」の入り混じったリアクションが、印象に残ったのかもしれない。
もしかしたら、これがわしの「表現」の原点だったのか?!

思えば表現の場を求めて歩き回る人生だった気もするなあ。
中高生のころは、ヤッチというとても頭のいい友達と、「アルクランドセル」というバンド??を作って、テープに歌を吹き込んで、2百円くらいでともだちに売ったりしていた。
バンドといっても、使う楽器はほぼアコギのみ、あとヤッチがピアノ弾けるのでたまにキーボード、
やり始めの頃はアコギさえ弾けなかったので、タニサンという友達のパソコンの、曲を作れるソフトを使って伴奏を作ってた。
録音に使用するのは、2千円程度の青いラジカセ!!我ながら美しい貧乏っぷり!
作る曲も、「おもしろい感じ」を目指した曲ばかりで、覚えているタイトルを並べると
「アウトロー」
「ゆけゆけ群馬県」
「給食アワー」
「便意」
「睡魔」
「ラッキー池田」
「マサオLet It Be」
とかそんな感じだった。
そのテープは、今でもタンスの奥に眠っているはずだが。封印。

美大に入って、世の中で芸術家が全然必要とされていないことを感じると、大道芸人に憧れてみたり。
教員を目指したのも、多くの人たちにいろんなことを伝えたかったからというのが、一つの理由だ。
学校とは、ある意味で表現の場であるとも言える。

そうか。やっぱりわしは「表現の場」を求めて歩き回っていたのだ。

とにかく、21世紀人展は終わってしまう。次の展示は、何も決まっていない。
落ち込む前に、次の作品の構想を語ろう。

次は、街を作ろうと思っている。
これまでは、「すべての物は、瞬間だけなら、美しい」というコンセプトで、
すべての物の美しさを肯定するつもりで、手当たりしだいの物を作っていた気がする。
次は、手当たりしだいには作らない。
街。街なのだ。
人間が住む街。街って美しいのだろうか?
住んでいるのは人間。
人間は、ある意味美しい。でも、とびきり汚い!
美しい、汚い、入り混じったのが人間、その人間が住む街。
美しさと汚さが拮抗する。

美しい!
汚い!
美しい、美しい!
汚い、汚い、汚い!

さあ、どっちが勝つか?
みんなはどう思う?
勝敗は人それぞれじゃないかな。
それぞれの人の、人間への肯定感や、これまでの人生、自己肯定感、これからの人類への期待感、または絶望感、そういった思いが影響して、勝敗が決まるのだと思う。
街が美しいか、汚いかという問題は。

わしは、いろんな人の、街への思いを、グジャグジャに盛り込んだ彫刻を作りたいと思っている。
オッサンというあだ名の友人は、
小学校5年生のときに自分の家庭を捨てて蒸発しちゃった父親の、消息を辿って、
住んでるところをつきとめ、一発ぶん殴ろうとして出かけたことがあるんだって。
けっきょく細かい事情でそれは叶わなかったらしいのだけど。

例えばわしは、オッサンのイメージの中にある、父親が住むアパートの、ドアのノブを作りたい。
まあそういうことです。
ガンバルゾー。まだ実現のメドは、なーんにも立ってないけど。
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by syun__kan | 2008-07-05 19:58 | 日記 | Comments(1)
Commented at 2008-07-07 20:51 x
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