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最近のつぶやき

「芸術新潮」の8月号に、作品の写真が載っています。
考えてみれば、美術関係の雑誌にのっけてもらったのは初めてです。
表紙は北京、内容も大方北京の特集でした。

それが宣伝になったのか、NHK「デジスタ」を制作している方より「応募しないか」という打診が・・・。
準備期間がないこと、展示終了後すぐに作品を処分してしまって、出せる作品が手元にないことなどを理由に、
残念ながら今回は出品しないことにしましたが、
それにしてもわしの作品まったくデジタルではないよなあ・・・。

と思ったら今度は「誰ピカ」を制作しているところからメールが・・・
まだ詳しくお話しは聞いていなくて、あした電話をかけてみるけど、
アートバトルへの応募の誘いなのかな??

しかし収録する日として伝えられたのは2学期始まってからの平日なので、
夜でない限り難しそうです。

うむむ。学生のころなら時間も豊富だったので喜んで参加するのになあ・・・。

21世紀人展が終わり、それに関するムーブメントも一段落ついたので、
あらためて、「自分は何ができて、何ができないのか?」「表現者として、観てくれる人に何を提供できるのか?」を考えてしまう。

プリンスは、歳とって踊れなくなっても、ギターをはじめたくさん楽器が弾けたので、
そっちに重点を置くことでライブ活動を継続できています。

マイケル・ジャクソンは、ステージでは「歌うこと」と「踊ること」のみに特化した天才だったので、
歳を取って踊れなくなったら、ライブができなくなってしまった。

マドンナさんは、自分を鍛えることがライフワークのような人なので、
歳を取っても踊れる。

わしは新聞を丸めて大きなものを作るしか、表現者としては提供できないなあ。
「デジスタ」「誰ピカ」とか、テレビに出たところで、何ができるというんだ?

これまで絵本描いたり、踊ったりはしてきたけど、それらはまだ学生レベルというか、
世の中に対して思いっきりアピールできるものでは全くない。
それらを突きつめ、「世の中レベル」に仕立て上げるには、
やっぱり豊富な時間と専念できる頭の中が必要なのだろう。
表現者としての「進化、深化」は、卒業の時点で止まったままなのかもしれない。

この間は三宅感の映画制作をのぞいて、集団でなにかを作るダイナミズムに触れた。
制作の過程自体が「スタンド・バイ・ミー」みたいな、成長物語の映画のようで、楽しさと充実感に溢れていた。
(ちょっとのぞいただけなので、そう感じるのかもしれないけど。ほんとは辛いこともたくさんなのだろう)
とにかく映画は一人では撮れない。
たくさんの人と付き合いながらの制作になる。

おとといは、服飾の専門学校でバックを作ってるガールフレンドの、
制作現場を見学させてもらった。
見たことのない道具やマシンを駆使して、作っているその現場は、
全く未知の世界で、違った文法の言葉を聞いているみたいで、
雰囲気に押されて、緊張して、5分くらいしかいられなかった。
この制作現場では、未知の技法やマシンに対して、しり込みしていては話にならないみたいだった。

自分とは違ったものを作っている、もの作りの現場をのぞくことは、すごく勉強になる。
それぞれすごい説得力があって、自分を省みる機会になる。

ああ!!
ところで!
わしは今日で25歳になったよ。

以前どこかで、
「人間の人格は、25歳までの人生で決まる。
人間的成長は、25歳になったら止まって、あとの人生は、その人格に従っていろんなことを判断するようになる」
というような文章を読んだことがある。(何に書いてあったんだっけなあ?)

それを読んだのは確か18歳くらいのときで、当時は
「そうか、人間は25歳で頭が固まっちゃうのか!
だからおじさん、おばさんは、こっちが何を言っても考えを変えようとしないのか!
どんな出来事を経験しても、それによって自分を動かされることがなく、
自分の価値観でさらりと受け流してしまうのか!」
と、なんだかすごく納得し、同時に
「わしはいつまでも、心を動かされる人でいたい!可変体でいつづけたい!」
と強く思った。

なので、18歳のわしは、自分が25歳になることに対して警戒心を抱くようになったのだが。
「わしは大人になっても、やわらかい頭でいつづけるぞ」みたいな。
実際に25歳になった今、はたしてわしの基本的な人格は、決まっちゃったのかな?

と、最近の自分を省みてみると、
そういえば興味の向く対象が、外界よりも、自分の内側や過去に向くようになった気がするなあ。

夏休みに先立って、海外旅行を計画しようとし、本屋の旅行案内の棚の前に立ったのだけど、
どこにも行く気が起きなかったのだよ。
そのかわりに、「国内の家屋や店、工場なんかのディティールを写真に撮って集めたい」というマニアックな欲望が先行して、そっちを実行することにしてしまった。

昨日神保町で古本めぐりをしたときは、
90年代初頭の、プロレスの写真集を2冊も買ってしまった。
(今はほとんど観ないけど、90年代、小中学生だったわしは、プロレスの熱狂的ファンだった。)

なんとなく、「わしの過ごしてきたこれまでの時間、場所とは、なんだったのか」を、大げさに言えば再検証することが、マイブームになりそうな今日このごろ。

それはそれで、いいのかもしれない。
25歳までは、食材集め。それを過ぎてからは、食材を煮込んで味付けしていく期間なのかもしれない。
そう考えれば、歳を取るのも悪くない。

とはいえ!やっぱり頭はやわらかいままでいつづけるぞ!
軟弱なのは困るけど。柔軟と軟弱は似て非なる。
強くやわらかく。
例えるなら・・・うーん・・・スルメしか思いつかない。
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by syun__kan | 2008-07-31 23:18 | 日記 | Comments(4)

三宅感。

取りに行きたいものがあって、
実家に帰ろうとして家を出たのだけど、
道すがら三宅感の映画制作のお手伝いをすることになり、
東青梅に行ってきた。

★三宅感・・・関口と、予備校、大学で同じ専攻だった友人。
彫刻科に所属していたころから映画監督を志し、クレイアニメや短編映画を制作。
NHKの「デジスタ」で賞を受けるなどの結果も残している。
4年生のころから作り始めた映画を、3年経った今でも制作し続けている。

制作の手伝いは、ずっとしたいなとは思っていたのだが、
この一年半は自分のことで手一杯で、今日やっと顔を出すことができた。

久し振りに会った三宅は、髪がボーボーに伸びて、天然パーマでクルクルして、
ラブセクシーのころのプリンスみたいだった。

東青梅の山道の、倉庫みたいなところで、制作をしていた。
倉庫には、三宅の知り合いの、女の子たちを中心とした手伝いの人たちが、集まってきた。
ガタイの良い男衆も、2、3人いる。

ほんとに、プリンスみたいだ。
プリンスの周りは、ウェンディ、リサ、シーラE、キャット、マイテとか、いつの時代もセクシーな女性のサポートメンバーが取り巻いていた。
その輪の外には、寡黙な感じのメンズが、サックスとかキーボードとかで脇を固めていた。

この集団形式は、表現者が活動を進めていく一つのパターンなのかもしれない。
カリスマの周りに集う、女性と男性。
率いる人と、ついていく人。
集団の方向性を決めるのは、カリスマ一人。
ついていく人は、カリスマのイマジネーションとか、特異性、過剰性に身をゆだねて、その魅力的なプロジェクトの進行に自己投影しているのかもしれない。

三宅は、立派なカリスマだった。
彼は、とても赤裸々な人だ。
エンターティナーであると同時に、自分の弱さも、チンパンジーのお尻のように、いつもむき出しのままだ。

赤裸々であるという事は、私にとっては、不可能なことだ。
私はいつも、何かしら演技しているところがある。
強みも、弱みも、普段は隠していたい人だ。

その点で、三宅とわしはすごく対照的というか、違った人間性を持っていると思った。

むき出しの人と、いつも演技している人。
一緒にいやすいのは、むき出しのひとだと思う。少なくとも、私にとってはそうだ。

いつも演技している人(仲間由紀恵さんとか?)は、その演技を切り崩して奥のほうを垣間見たり、深読みしたりすることは楽しいけど、いつもそんなことしてたら疲れてしまう。

三宅氏の場合、てんこ盛りの特殊性を持っていて、その部分までむき出しなので、
傍らにいて、こんなに面白い人はいない。

彼となら一緒にいい夢を見れる。と、わしは正直に思う。
でも本人は弱さもむき出しなので、サポートせずにはいられなくなるのかもしれない。

プリンスの次には、わしが一番好きな映画、「ブルース・ブラザーズ」を思い出した。
黒スーツにサングラスのジェイクとエルウッドが、自分達の育った孤児院の財政的な危機を救うため、
昔のバンド仲間を集めてライブを開いてお金を集めようとするロードムービー。

昔のバンド仲間は、みんな堅気の商売についているのだけど、
ジェイクとエルウッドの誘いを受け、なんだかんだでツアーに巻き込まれ、
案の定、ギャラの未払いとか、いろいろ振り回される。

最後のほうで、ジェイクとエルウッドは演奏するメンバーを残してトンズラするのだけど、
そのときのドラマーの、
「あ、逃げるの、うん、まあ、いいよ」というニュアンスの笑みがとても良い。

ラストシーンは、ジェイクもエルウッドもメンバーも、みんな刑務所に入っていて、
刑務所の中で「監獄ロック」をワーッと演奏している。
とても楽しそうだ。

そう、カリスマの最高の資質は、
こいつとなら一緒に刑務所に入ってもかまわない、と人に思わせることなのだろう。

・・・とはいえ、私は教員としての立場があるので、そこまでは逸脱できない。
(美術の先生というのは難しい。ロック的な価値観と、公務員的な価値観の間を行ったり来たりしなくてはならない)

なんだかんだで、教員をしながら、こうした美大からの文脈上にある友人の映画制作を手伝えたりするのは、とても幸せなことだ。
普段と違った価値観の世界に身を置くことは、すごくいい刺激になる。これは間違いないと思う。

日本という恵まれた環境の中で生まれ育って、私に苦しみがあったとすれば、
それはカテゴライズされない苦しみ、類似品のいない苦しみだったと思う。
(もちろんそれは同時に誇りでもある)
だからこそ、独自の手法と独自の価値観で身を立てなければならない。
言い換えると、身を立てる上で、手法と価値観を自分で作り出さなくてはならない。
たぶん、三宅氏も、そうだったんじゃないかなーと思う。
だからこそ、「三宅が今何やってんのか」ということは、気になる。
参考にしたいのだと思う。
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by syun__kan | 2008-07-27 23:02 | 日記 | Comments(2)

文化的まどろみ

生徒は夏休みに入ったので、最近は出勤はあるものの、定時に帰ることができます。
昨日は、帰り道に、BOOK OFFに寄りました。
帰り道の途中に(わしは自転車通勤)、
「○○の交差点、左折 BOOK OFF」っていう看板が出ていたので、
行ってみたいなと、ちょっと思っていたのだ。
しかし、忙しく働いている最中だと、
仕事が終わると、どうにかして体力と時間を節約したくて、
寄り道なんてほとんどしてなかった。
道沿いのコンビニとかにはよく寄ったけど、
通勤の道をちょっと外れなきゃいけないところなんて、行く気が、起きない起きない。
道沿いのコンビニでさえ、店の入り口がすぐ道に面してればいいけど、
駐車場が備わってたりすると、それを横切る分の距離がもったいなくて、
めんどくさくなって寄らなかったり。
そんで、家に帰ったら、もう半失神?で、
風呂に入りながら寝ちゃったりとかね。
わしはスポーツに打ち込んだ経験がないからか、フィジカルが、弱いのだ。
疲れやすいのだ。
寒いとすぐに風邪をひくし。
虚弱ソンと呼んでください。(マイケルファンだから)

というわけで、めでたく一学期が終わったので、
元気があれば何でもできる!元気があれば、BOOK OFFにも寄れる。

話は少し飛ぶけど、
大学の時に住んでた京王線の西の果て、「橋本駅」は、
本当に素晴らしかった。
何しろ、
サティ、ダイソー、BOOK OFF、ユニクロ、TSUTAYA、シダックス、ホームセンター、マック、松屋、ケンタッキー、ミスタードーナッツ、映画館、
そういう類の便利な店が、全部揃ってた。
当時はそれが普通だと思っていたけど、
練馬区に住む今となっては、それはとてもレアなことだったのだと気づく。
(練馬区は、町が古いのか、あんまりそういう新しい店はなく、商店街中心の布陣)
あんな便利なところに住みながら、
「橋本ってCD屋がないから不便だよね~」などと、バチあたりなこと言っていました。
若かった。ごめんなさい。

というわけで、ここ練馬区では、新しい店が少ないので、
BOOK OFFに寄ることも、少し貴重な出来事なのです。

大きなガスタンクが5、6個並んだ交差点を折れ、BOOK OFFに到着。
特に当てもなく、品物を見てまわる。

この、脳みそをニュートラルにして本、CDを物色する、
「文化的まどろみ」のような時間が、人生にはとっても貴重なんだろうなあ。と、改めて実感しました。
節目、節目で忙しくない時期が巡ってくる職場でよかった。
文化的まどろみを排除して、一生を過ごせる自信はない。

買ったもの!
★ジャネット・ジャクソンの89年のアルバム「リズムネイション1814」
・・・90年代に軍隊風のダンスを、マドンナもマイケルも取り入れたけど、
元祖はこの、ジャネットのリズムネイション。
この時点では、ジャネットは世界の最先端だったんだね!
19年の歳月を経て、BOOK OFFで250円で売られる。
★プリンスの「ビューティフル・エクスペリエンス」
★橋本真也のDVD
・・・中学の頃、生で見た、群馬県スポーツセンターの越中詩郎戦も収録されてる。わしの声援が入ってるかもしれない。
★工作の本
★83年のマルセル・マルソーの日本公演のパンフレット(美品)
・・・人の一生を3分で表現するパントマイムの神様。数年前に亡くなった。
25年前の公演のパンフレット、どういうわけか、歳月を経て、BOOK OFFで105円で売られる。関口に買われる。
★世界のCMフェスティバル
・・・世界中のCMを100本集めたDVD。まだ観ていないけど、面白そー!!

しめて3千円くらいの買い物でした。
「ブルース・ブラザーズ」と「パープル・レイン」のDVDも気になったけど、またの機会にします。
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by syun__kan | 2008-07-24 20:14 | 日記 | Comments(1)

教員と芸術家の醍醐味

1学期が終わりました。
肩の荷が、下りました。
今学期は、スリリングでした。
今年度からはじめてのことが多く、プレッシャーが大きかったです。
悔しい思いもたくさんありました。
この悔しい思いを食べて、2学期がんばります。

通信簿も、書きました。
(いつも思いますが・・・まさか、自分が、通信簿を、書く側になるとはな!)

私の学校は特別支援学校なので、
普通級の通信簿のように、各教科が1~5で評価されて、
出席状況が載ってて、
最後に担任からちょこっと文章が添えてるような通信簿とは違います。

たぶん特別支援学校の通信簿というのはどこでもそうなんだと思うのだけど、
学期の初めに、個別の目標をいろいろ立てて、支援の方法を考えて書いて、
学期の終わりに、どのくらいの変化が見られたかを書く。
ようするに、自分がその生徒に対してどれだけ適切な目標を立てられて、適切な支援をできたか、
自分で評価するようなもの。
自分への評価に限りなく近いのです。
なので、結果が出ていないと落ち込むし、結果が出ていればとても喜びます。

私は大学を出るとき、ずっと芸術だけをやり続けていくという生き方の選択肢も、無くはなかったのだと思います。
でも私は、養護学校の教員になりました。
私の今の仕事の醍醐味を聞かれたら、私はこう答えるでしょう。

世の中には、いろいろな仕事があるけれど、
走る、踊る、歌う、絵を書く、字を書く、パソコンを打つ、植物を育てる、掃除する、料理する、
そういった要素がすべて詰め込まれてる職業はあんまりないと思う。
特別支援学校の教員は、そういうことを全部やります。生きていることを実感します。
その意味では、健全で、健康的で良い仕事だと思う。
いろいろ大変なことはありますが。

私は、大学が終わりそうになって、将来のことを考えなければならなくなったとき、
芸術家一本で生きていこうとは思いませんでした。
芸術だけやっていると、人間的成長がないように思えたのです。
自分の弱点を強化しなければと思いました。

とはいえ、私は芸術をやることの醍醐味っていうのも、知っています。

あれは大学3年の時。
私は親しい友人と、3人で「みはじ展」というグループ展を開きました。
友人も、とても力のある作品を作る人なので、私達はお互い張り合って、
小さな草の根的な展示に過ぎないのに、人生を賭けるような勢いと集中力で作品制作に取り組んでいました。
部屋を暗くして作品を展示する予定だったので、私は巨大なボックスアートの要領で、
暗い中に等身大の部屋が浮かび上がるような、「海が好きな男」という作品を学校で作っていたのですが・・・

バイトや教習所通いでとても忙しかった当時。制作は難航し。
身を削りながら、作っていました。
搬入の日の前日、やっと仕上がりました。
出来上がった作品を、そこに居合わせた非常勤講師の池ヶ谷先生と一緒に眺めます。

「ふっ・・・ふはははは!なんだこれ。あほだ。はっははは!
あはははは。これあほだ。ははは」

と、池ヶ谷先生と私は、一緒になって爆笑し始めてしまいました。

これが、私にとっての、美術をやることの醍醐味です。
意味がわかりますか?

制作に没頭し、集中し、
ふと顔を上げて、自分の仕事を客観視し、「こんなものができてた」と認識した時、
私は思わず、笑ってしまいます。

なにかこう、そのものが、自分の力ではない力が働いて、作られたような気がするのです。
あまりにもばかばかしかったり、あまりにも美しく感じられたり。
でもそれは、幽霊や神様が力を貸してくれたとか、そんなはずはなく、自分の手でやったことに間違いないのです。
そうなると、私は普段は出てこない、自分の中の可能性を、お腹の中からえぐり出したような気分になります。
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それはとても気持ちのいいものなのです。

これこそが、美術をやることでしか得られない、醍醐味だと思うのです。
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by syun__kan | 2008-07-20 14:42 | 日記 | Comments(2)

うまくやっていく

21世紀人展が終わってしまった。
でもわしは元気だ。
たまっていた洗濯物も、洗った。
2回に分けて洗った。
シーツも洗った。
ものすごい日差しと、暑い空気が、
洗濯物を、今、積極的に、乾かしている。
窓の外で、乾かしている。
素晴らしいことだ。
水分が、蒸発していく。
カラカラに、乾く。
柔軟剤を入れていないので、
今日の夜、風呂に入るときには、
ガジガジに乾いたバスタオルを、使うことができるだろう。
素晴らしいことだ。
ガジガジのバスタオルは、わしの体を拭くことによって、
また濡れる。
未使用のタオルが一つ減り、使用済みのタオルが一つ増えるのだ。
生活だ。
ほんとに、冗談ではなく、素晴らしいことだ。
長澤まさみさんは、今、地球のどこかに存在している。
かわいさを維持したまま、存在していることだろう。
素晴らしいことだ。
長澤まさみさんは、今日もかわいい。
もちろん、宮崎あおいさんも、永作博美さんも、榮倉さんも、今日もかわらずかわいいのだろう。
今日はじりじりと暑い。
じりじりと焼かれながら、グランドで練習している野球部の少年の頬には、
汗がつたっているはずだ。
元から日焼けして黒いのに、さらに黒くなっていく。
今日も、地球のいろんなところで、オーバー・ザ・レインボーは流れるのだろう。
それは、「オズの魔法使」のDVDだったり、
ジュディ・ガーランドのコンサートCDだったり、
簡単に省略されたインストの有線の店内放送だったり、
学校の授業で生徒に歌わせるために、音楽室で練習している音楽担当の教員のピアノだったりするのだろう。
もちろん温暖化もどんどん進行しているんだろうな。
北極のシロクマの危機は、どんどん迫っているのだろう。
わしは温暖化に対して、何にもしていない。申し訳ない。
高校3年生の終わりごろ、(もう多摩美に入学することが決まったあとだ)
母と一緒に、近所のサティに服を買いに行って、
突然自我が目覚めたようになって、
頭が混乱して(鮮明になって?)
母に
「わしは多摩美に行かない。これからは、ずっと砂漠に木を植える仕事をする」
とか口走ったことがある。
もちろんそれは実行に移すことはなく、ちゃんと多摩美に行ったけど。
でも、本当は、砂漠に木を植えるほうを選ぶべきだったのかもしれない。
どっちが正しいとかはない。可能性だけは常にあるということだ。
芸術をやって生きていくには、敏感さと鈍感さを併せ持ってなくてはならない。
まわりからの情報を敏感にインプットすることが必要だし、
リスクに対しては鈍感でないと。
うまくやっていきます。
これから通信簿を書いて、
今日の夕飯はカレーにしようか。
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by syun__kan | 2008-07-13 13:50 | 日記 | Comments(0)

次の表現

もうすぐ21世紀人展が終わってしまう。
いろんな人と新たに会えたし、この機会に懐かしい人に会ったりもした。
アエラに出させてもらった。新日曜美術館のアートシーンには作品を5秒間くらい映してもらった。いい夢を見させてもらった。
でも、終わってしまう。

わしは生まれついての、「常に表現してなきゃいられない人」だった。
実家の、わしが子どものころ使っていた机の引き出しに、幼稚園のときの連絡帳みたいなやつが入ってたのだけど、

「光太郎君は、わざと転んで、友達を笑わせようとしていたりするところがちょっと気になりますが、いい子です」

みたいなことが書いてあった。困った子だ。

わしの一番最初の記憶は、赤ちゃんのわしが実家の居間に寝ていて、
父と母がわしを覗き込んでいて、
わしが上に向けておしっこを吹き上げたときのことだ。
その時の、両親の「笑い」と「困惑」の入り混じったリアクションが、印象に残ったのかもしれない。
もしかしたら、これがわしの「表現」の原点だったのか?!

思えば表現の場を求めて歩き回る人生だった気もするなあ。
中高生のころは、ヤッチというとても頭のいい友達と、「アルクランドセル」というバンド??を作って、テープに歌を吹き込んで、2百円くらいでともだちに売ったりしていた。
バンドといっても、使う楽器はほぼアコギのみ、あとヤッチがピアノ弾けるのでたまにキーボード、
やり始めの頃はアコギさえ弾けなかったので、タニサンという友達のパソコンの、曲を作れるソフトを使って伴奏を作ってた。
録音に使用するのは、2千円程度の青いラジカセ!!我ながら美しい貧乏っぷり!
作る曲も、「おもしろい感じ」を目指した曲ばかりで、覚えているタイトルを並べると
「アウトロー」
「ゆけゆけ群馬県」
「給食アワー」
「便意」
「睡魔」
「ラッキー池田」
「マサオLet It Be」
とかそんな感じだった。
そのテープは、今でもタンスの奥に眠っているはずだが。封印。

美大に入って、世の中で芸術家が全然必要とされていないことを感じると、大道芸人に憧れてみたり。
教員を目指したのも、多くの人たちにいろんなことを伝えたかったからというのが、一つの理由だ。
学校とは、ある意味で表現の場であるとも言える。

そうか。やっぱりわしは「表現の場」を求めて歩き回っていたのだ。

とにかく、21世紀人展は終わってしまう。次の展示は、何も決まっていない。
落ち込む前に、次の作品の構想を語ろう。

次は、街を作ろうと思っている。
これまでは、「すべての物は、瞬間だけなら、美しい」というコンセプトで、
すべての物の美しさを肯定するつもりで、手当たりしだいの物を作っていた気がする。
次は、手当たりしだいには作らない。
街。街なのだ。
人間が住む街。街って美しいのだろうか?
住んでいるのは人間。
人間は、ある意味美しい。でも、とびきり汚い!
美しい、汚い、入り混じったのが人間、その人間が住む街。
美しさと汚さが拮抗する。

美しい!
汚い!
美しい、美しい!
汚い、汚い、汚い!

さあ、どっちが勝つか?
みんなはどう思う?
勝敗は人それぞれじゃないかな。
それぞれの人の、人間への肯定感や、これまでの人生、自己肯定感、これからの人類への期待感、または絶望感、そういった思いが影響して、勝敗が決まるのだと思う。
街が美しいか、汚いかという問題は。

わしは、いろんな人の、街への思いを、グジャグジャに盛り込んだ彫刻を作りたいと思っている。
オッサンというあだ名の友人は、
小学校5年生のときに自分の家庭を捨てて蒸発しちゃった父親の、消息を辿って、
住んでるところをつきとめ、一発ぶん殴ろうとして出かけたことがあるんだって。
けっきょく細かい事情でそれは叶わなかったらしいのだけど。

例えばわしは、オッサンのイメージの中にある、父親が住むアパートの、ドアのノブを作りたい。
まあそういうことです。
ガンバルゾー。まだ実現のメドは、なーんにも立ってないけど。
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by syun__kan | 2008-07-05 19:58 | 日記 | Comments(1)