パッタン、シタタン、パッタン、シタタン…
わしが歩いている。
夜中、犬の散歩をしながら、ビーチサンダルを履いて。
パッタンは、わしの左足の音だ。
踏み込んで地面に着いた左足、
再び地面を離れる瞬間、
かかとが上がり、サンダルの底はまだ地面に寝ている。
次いでつま先が地面を離れ、
ほぼ同時にサンダルの底も地面を離れて、
わしのかかとの足の裏をパッタンと叩く。
その音だ。
シタタンは右足の音だ。
左足と同じように、かかとを上げ、次いでつま先が地面を離れ、
サンダルの底がわしの足の裏を叩くわけだが、
どういうわけか、つま先の力の入り具合が左足とは異なる様で、
右足は2回叩くのである。
よって、シタタンとなる。
パッタン、シタタン、パッタン、シタタン…
歩きながら、そのことに気付いた。
これは、つまり右足は左足より力が入っているのか?抜けているのか?
気になって、検証してみたくなり、つま先の力の入り具合に意識を向けてみた。
すると、力加減が変わってしまったようで、
パッタン、パッタン、パッタン、パッタン…
になってしまった。
わしは再びシタタンを取り戻すため、右足のつま先の力の入り具合を調節する。
しかしどうもうまく行かず、
パッタン、シタン!パッタン、シタッ!パタン、シタタン、パッタン、シタタタ!
という具合に、乱れてしまった。
悔しくも、意識を向けている間は、安定したシタタンを取り戻すことはできなかった。
なのでわしは、取り戻せなかった代わりに、この話を奥さんにして、笑ってもらおうかとも思ったのだけど、
オチがないというか、ナイーヴすぎる気がして、ためらわれた。
そして、こういったフィーリングは、どこかで経験したことがあるな、
そうそう、小学校の頃に国語でやった、詩を作る授業っぽいと思った。
詩の授業では、水を飲んだときや、ウサギを抱いた時など、
日常の様々な場面で感じることや小さな発見のようなもの、
機微みたいなものをつかみ取って書くことが求められた。
わしはけっこうそれが好きで、楽しんでやっていたけど、
結局のところ、あの感性は、
シタタンを追い求めるような感性は、
大人になって、果たして何の役に立つのだろうか?
あの感性に特化した人が育ったら、けっこう困るのではないか?
そしてわしはその、詩の授業の感性に特化した人になっているのではないか?
パッタン、シタタン、パッタン、シタタン…
まあ、楽しく生きてはいるよ。