休日。
公園で娘がブランコを漕ぐが、
一人で、大きく漕ぐことができるようになっている。
去年は、一人では大きく揺らすことができなかった。
背中を押してやる必要があった。
ずいぶんと足が伸び、
より人間に近づいている。
近所の公園で、
犬の散歩に一緒に来たついでに遊んでいて、いろいろ気付く。
いや、背中を押してやる必要があったのは、
去年というより、半年くらい前の記憶か?
娘が懐いてくれて、一緒に過ごす時間は、
非常に大切で幸せなのだが、
しかし記憶は、
錠剤がお湯に投げ込まれて溶けだすように、
どんどん曖昧になってしまう。
このもったいなさから、みんな写真を撮ったり、動画を撮ったりするのだろうけど、
しかしながら、足元に草、上に空、
この上下左右囲まれて、
視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚をすべて使い、
前日の疲れを宿していたりこれからの時間にすることを考えていたりといった前後の状況まですべて含めて、
享受しているこの時間というのは、
今しかない。
わしも写真は撮る。
やっぱりもったいないし。
幸せを感じた時間を記録しておきたい。
しかしこの写真をいつ見るのか?
娘は今は懐いてくれるが、
たまに休みがずれたときに朝幼稚園に送っていくだけで喜んでくれるが、
そのうちに、
「来なくていい」~「何で来たの?」~「来ないで」~「絶対来ないで」
等に変化していくわけで、
そういう時に、
「あの頃は、幼稚園に送るだけで、喜んでくれたのう」
と言って、
わしは写真を見るのだろうか?
まあそれはそれで良いだろう。
それがその時の、わしにとっての明日への活力になるのであれば。
ブログにも娘については、たまに書いているから、
それを読み返したりして。
そして写真を見た記憶さえ、また曖昧になったりして、
また見て、また忘れて、
それを繰り返しているうちに、
わしはその他含めすべての記憶を混濁する。
月曜の今日。
わしは代休で、
娘の幼稚園の迎えに行けた。
幼稚園の近くには広場があり、
放課後の園児たちが、保護者の見守りの元、縦横無尽に遊んでいる。
娘もそこに加わり、わしも広場に入るが、
ほとんどがママ達な中、わしはレアな「父親」であり、
しかもバルタン星人のシャツを着ていて、
先生としてのオーラが出ていることもあって、
すぐに男児に囲まれ、やがて攻撃を受け始める。
もっとも積極的に攻撃をしてくる男児は、
スネから膝にかけて、無数の擦り傷があり、
「子どもって、こうだよな!」
と、わしは小さく感動する。
わしの子は女の子なこともあり、
膝にほとんど擦り傷を作らない。
でも、自分の幼少期を振り返ると、
膝って大体いつも血が出ていた気がする。
膝が擦り傷だらけの男児を見て、
インド人がカレー食ってるのを見るような、
「これだよこれ!」
というような、
妙な安心感じがした。
娘含め関口家は、買い出しに行く用事があるので一足先に広場を後にするが、
通り道のところで、
一心不乱に、地面から石を掘り出す男児に遭遇する。
「たたかいごっこ」の群れから離れ、
服を土だらけにしながら、
固い土に埋まった、
大人から見ると心底何でも無い石を、
他の尖った石で「周りから攻め」ながら、
掘り出そうとする男児。
「大人から見たらただの石だけど、子どもから見たら宝もの」
というような、
何かそういう感じではないのだ。
ちょっとそれは違う。
宝物とかではなく、
それが埋まっているから、ただ、掘るのだ。
掘るべきと、何かが指令を下す。
「分かるよ、君の気持ち!」
と、わしはまた感動し、
「こっちには丸いのが埋まってるよ」と、口を出す。