5歳の娘に「抱っこ」と言われ、抱っこしていたら、
「あつくてくさい」
と言われた。
という、何気ないエピソードを、奥さんに、
「さっきさ、抱っこしたらさ、あつくてくさいって言われたよ。
抱っこしてって言ったのは、自分なのにさ」
と話したら、
大うけ。
「ぶはははは!
あつくてくさいって言ったの?だめだよそんなこと言っちゃ!」
と、その場にいた娘に話し、
わしには、
「くさくないよ君はそんなに、まあ、汗かいてたからね!」
という、何かフォローのようなものをわしに投げかける。
わしはというと、
家族に笑いをもたらしたことは喜ばしいが、
思った以上にうけて、少し戸惑う。
奥さんの声掛けにフォローのニュアンスを感じ、
自分はおじさん、
「おにいさん」か「おじさん」か微妙な時期を過ぎた、かんっぜんなおじさんなので、
自分がくさいか否かについて、気にするような時期も過ぎ、
くさかろうが何だろうが、細かいことがどうでもよい領域に達しつつあったので、
フォローをどう受け止めてよいか、感覚の落としどころに迷った。
奥さんは、後日ママ友たちの間でも、
「そういえば娘がこないださ」と、
「あつくてくさい」のエピソードを話し、
「あー女の子ってそういう時期んなるよねー」
というような共感を集めたりし。
で、「ママ友とこんな話したりしたよ」とわしに報告してくれ、
「でも君そんなにくさくないのにね」
と、再度フォローのニュアンスを含んだサムシングを投げかけてくれる。
「いや、いいよ別にくさくても」
と、わしは返答するが、
何となくその返答は、わしの意に反して「強がり」のような雰囲気を伴ってリビングに浮かぶ。
何故だ。
娘は、かの発言をしたとき、それほど「パパ何かもうくさい!イヤ!」的な、
思春期っぽいニュアンスで言ってはいなかったような気が、わしはしているのだが、
奥さんの大うけ具合が印象的だったから、とわしは思っているのだが、
何だか「お父さん=くさい」という観念が強くなって、
わしが仕事に行っている間、
わしがソファに脱ぎ捨てたジャージを着て、
ぶかぶか具合を楽しんだ後、
「くさい」と言っていた。
というエピソードを、奥さんはまた、
「ジャージ着てくさいって言ってたんだよー、はははは!」
と、わしに話し、
その後、
「でもそんなにくさくないよね」
といってわしに近づいて嗅ぎ、
「うん、くさくないよ」
と、またしてもフォローのようなものを、熨斗をつけて渡してくれる。
「だからべつにくさくてもいいですよ」
と答えるが、
「いやくさくないよ」
と返され、
「いや何というか、そうではなくて」
と言うものの、すでに現場の二階の洗濯部屋の空気は「強がり感」に満ちていて、
わしは岡本太郎のように「何だこれは!」と思う。
一連の事象は、
「くささ」という、独特な要素がもたらす特殊な状況というべきか。
いいんだわしはくさくても。
本当だ。
「関口光太郎はくさいです」と、
競技場の真ん中で宣誓したい気分だ。
同僚や友人を招いて式典してもいい。
正確には、「関口光太郎はくさいかもしれません」という宣言だ。
わしはくさいかもしれなくて、しかしわしはそれについてどうでもよい。
要するに言いたいことはこれだ。
もう一度言おう。
わしはくさいかもしれなくて、しかしわしはそれについてどうでもよい。
本当なりぞ。