いわき市立美術館でワークショップした日、
昼ごはんは美術館の近くの定食屋で、学芸員さんと食べた。
ここに来るのは2度目か3度目、
わしはレバニラ定食にして、
その量と味と値段に充分納得し、
「この店は最高ですよね」
と述べた。
すると学芸員さんは、
「お米が美味しいですよね」
と。
わしとしては主にレバニラへの評価で米のことはあまり勘案していなかったのだが、
どうやら学芸員さんは実家が農家で産直のお米を食べられるため、
お米の味の差はよく分かるとのこと。
東京で勤務していた頃の、
スーパーの300円弁当のお米とかは、申し訳無いけどかなり頂けなかったとのこと。
なるほど、
北海道出身のわしの知り合いも、
東京の回転寿司のウニは、
あのようなものは、悪いけどウニではないと言っていた。
島根に行った時も、
土地の人が、
東京のお刺身は論外に近いと述べられていた。
本物の味を知る人は、その品について自然と審美舌が敏感になるのだろう。
わしはかなり鈍感だ。
どんなお米だろうと全部うまい。
くら寿司のウニで最高に贅沢な気分になれる。
小学生の時に米不足とかで食べた、
輸入されたタイ米も、
親はまずいと言っていたけど、
わしは正直違いがわからんかった。(♯平成史)
でも、コーヒーの味の差は少し分かる。
きっかけは、
すごく安いインスタントコーヒーを買って飲んだら、
ものすごくまずかった時だ。
墨汁に乾燥芋の粉末を混ぜたかのようだった。
それまでは、
スタバだろうとマクドナルドだろうとインスタントだろうと、
コーヒーはコーヒーで全部おんなじだった。
最上の味を知って敏感になるのではなく、
衝撃のまずさによっても舌は敏感になる。
「でも、何でも美味しいって食べられた方が幸せですよね」と、
その学芸員さんは述べた。
確かにそうだ…
どんな米でも、どんなコーヒーでも、
美味しいと思えた方が、
幸せな時間が多くなる。
比較論から来る不満足感と無縁でいられるということだ。
しかし…
無知によってもたらさかれる幸せは、本当の幸せと言えるのだろうか?
レバニラ定食問答は、
意外と哲学的な命題だった。
そして、
この文を打っているのは、
前橋の実家の倉庫の片付けをしていた帰りの電車内なのだか、
文を打つわしの気は若干重い。
道中、暇つぶしに向田邦子のエッセイを読んでいたからだ。
向田さんのエッセイは上手すぎる。あまりに面白すぎる。
まさに本物、最上の一品であるので、
自分が何かを書く気がしなくなるのであった。